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堀江が生んだ「浪速の知の巨人」

江戸時代、堀江で文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。当時の一大文化サロンの立役者が木村蒹葭堂さんです。元文元年11月28日(1736年12月29日)、大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋に生まれ、名は孔恭(孔龔)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世肅、号は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)、通称 坪井屋(壺井屋)吉右衛門。蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とは彼の書斎のことで、庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。10代はじめから漢詩や書画をはじめ、混沌詩社の前身となる詩文結社 蒹葭堂会を主催し、本草学、文学、物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画や煎茶、篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。 また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり彼の元に訪れた。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には延べ9万人の来訪者が著されている。漢詩人、作家、学者、医者、本草学者、絵師、大名等など幅広い交友が生まれ、個人としては最大の知のネットワーカーとなり、当時の一大文化サロンの主となった。現在の大阪の新しい文化が生まれつつある、今の堀江の状況にに似ていますね。

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